きょうもねむいブログ

わたしの話を聞いてみてくれませんか

大学とお金と自分の意志と

 大学生になって一週間くらいがたった。

 もう授業が始まってしまうので教科書を買いに行く。

 1万円と5千円くらいかかった。

 ついでに電子辞書も買った。わたしは通信制の高校に通っていたから電子辞書なんて使う機会なかったものだから、大学生になったことで私も電子辞書デビュー。

 3万円と5千円くらいかかった。

 教科書代と電子辞書代、合わせたら私の先月のバイト代よりも多かった。そう考えると恐ろしくなった。

 

 その日の夜、母が言った。

 「教科書代くらい自分で払ったっていいんだからね?」

 確かにその通りだと思う。払えないけど。まあそれをお母さんも知っていたから「奨学金借りてもいいんだからね?」と付け足すように言った。

 

 我が家の経済状況から考えると本来なら進学のために奨学金を借りるのは当然なのだが、現状1円も借りていない。どうやら両親は学費のために何年もコツコツ貯金していたらしく、学費はそこから出されることになっていた。

 つまり私は私立の大学に通うにもかかわらず奨学金を払わずに済んでいる。(この先もそれで済むのかは知らないが)母親に借金背負いたくないと駄々こねる権利などどこにもない。

 続けて母は言う。

 「せめて頑張ってボーナスの出る会社に入って。そのために学費出してるんだから。」

 

 この言葉を聞いた時、私は一瞬なんで生きてるのか分からなくなった。

 私はついこの間まで不登校だった。中学に行かず家にこもりきりで、運動も勉強もせず健全な精神やコミュニケーション力を育むこともなく、向精神薬を飲みただただ植物のように生きているだけだった。

 通信制の高校に進学したことでいろいろと多少マシになり、今は誰の介護も必要とせず買い物できたりアルバイトできたり、いちおう一人で身の回りの事はできるレベルまでの行動力は何とか取り戻したところである。

 でもこんな人間が、はたしてボーナス付きで福利厚生のしっかりしたホワイト企業に就職できるだろうか? たぶん無理だと思う。

 まともな学生でも難しいことを、この人間の出来損ないにできるのだろうか。

 母の気持ちもわからないでもないし、もちろん努力はする。でも「頑張れば就職でもなんでもきっと何とかなると思う精神」の持ち主であったならそもそもあの言葉で自分が何で生きているのか見失ったりなんかしないと思う。

 

 学費のことを考えて高卒で就職しようか迷った時期もあった。母にも「別に大学行かないで働いてもいいんだからね?」と言われたこともあった。でも自分が教養も無く精神的に未熟なのを知っていたから、大学に行って社会の輪に加われるような教養と精神と体力を兼ね備えた「人間」になる努力をしようと思い進学を決めた。

 やりたい仕事もないのにあの状態のままお金のためだけに就職していたら、きっと植物から家畜にジョブチェンジするだけだったろうからこの判断は間違っていなかったと思う。(この判断ができる時点でだいぶ恵まれているとは思うが)

 

 植物から人間になろうとするこの自分なりの「意志」を持って大学へ入学したはずなのに、気が付けば母親に進学の動機を「ボーナス付きで福祉厚生のしっかりした会社へ就職するため」に上書きされようとしていた。でも、私は学費を出してもらっている立場なのだから、フリでもそうであらねばいけない。そう考えるとこの文章を書いてる今もむなしくなってきた。

 

母が「教員免許はとらないの」と言ってきた。公務員、安定した仕事っていうのはわかるよ。でも私みたいな人間に可能性ある子供の未来を託してはいけないと思いますが。

 

 

明日からはきっと「人間関係フィルタリング」とたたかう一ヶ月になる、たぶん。

最近、大学の新歓に行った。(ちなみにサークルとかが開いてる新歓じゃなくて、大学が早く学校になじめるようにって開いてくれるタイプのやつ。)

わたし、人見知りでその上コミュ障だから、その新歓に参加するのめちゃくちゃ不安だったの。周りの話題についていけずあうあうしてる自分の姿が容易に想像できた。でもだからこそこれからの人間関係のために早めに動いておかなきゃ、って思って勇気振り絞って参加した。

 

結果、頑張った甲斐あって思っていたよりかは人と喋れた。LINEもそこそこ交換できた。ちょうびっくり。(行く前まで喋れるの一人くらいだとおもってた)

なんでかなーって考えたら、みんな「誰でもいいから友達ほしいオーラ」「誰かと仲良くなりたいオーラ」みたいなのを放ってたから、かな。だから割とすんなり話しかけることができた。

 

どうやらみんな、友達できるか不安だったらしい。

ある程度はそうだろうなっていうのは予想ついたよ、そりゃ。誰だって不安になると思うよ。なかには一人暮らし始めたり、まったく知らないエリアに通学することになった人もいるだろうし。

でもなんていうか、普通の人(普通っていうとアレだけど、つまりはコミュニケーション健常者)はもうちょっと「人を選ぶ」んだと思ってた。そこまで友達に飢えていないと思ってた。参加してる人たちの抱えてる不安の度合いが想像以上だった。

 

二人組とかでサークル紹介のブースとかまわってるほかの参加者を見ると、たまに「この子達高校でおんなじクラスだったら絶対違うグループでしょ」みたいなのがいたし。

みんなファッションの系統とか全体的な雰囲気とか第一印象とかで人間関係フィルタリングしてないんだなー、って感じ。嫌な話だけど、ある程度固まってる人間関係の中だとあるよね、こういうフィルタリング。言っておいてあれだけど自分でも使ってるし。

たしかに、まだこのタイミングでフィルタリングをする余裕はなかった。手当たり次第にって感じだった。一緒にいた子もそんな感じだった。気が合うとか合わないとかそういうのはどっかに置いて、とにかく「所属する何か」を見つけようとしている感じだった。

 

この状態がいつまで続くのかはわからないけど、とにかく続いてる間なら知り合い増やすのには(友達じゃなくて知り合い)あまり苦労しなさそう。

そっからみんなだんだん知り合いをフィルタリングして人間関係を固めていく...そのタイミングが苦手。コミュ障はフィルターに弾かれてしまう。

 

どうせ最終的にフィルタリングされるなら、無駄に頑張る必要はないのかもしれない。まあ、そう意識しても無意識に自分を守るために頑張っちゃうけど。

喋るの苦手なくせにやたら喋ろうとしたり、人付き合い苦手なくせにまるで人付き合い得意なように振舞ったり、無い個性を主張したり。

頑張って誰かのフィルタリングに引っかかるためにキャラじゃないことやると、なぜかバレるんだよね。わたしも「あーこの子頑張ってるなー」ってわかる時あるし。

 

今気づいたけど、別に私は誰かが決めて「フィルタリングされる側」になった訳ではないんだよな。勝手に自分で決めただけで「フィルタリングする側」にもなれるはずなのに。自分に自信がないとこういう思考回路になりがちだよね。わたしにだって自分の意志はあるわけで。

 

とにかく四月からの人間関係、「数だけ撃って自分に素直でいる」を心がけようと思います。おわし。